ベルクのヴァイオリン協奏曲

SUB:ベルクのヴァイオリン協奏曲(長文)

アントン・ウェーベルンが指揮したアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲という
CDを見つけたので、早速 GET。ヴァイオリンのソロはこの曲を委嘱し、初演した
Louis Kranser 。オケはBBC管弦楽団。録音が1936年5月。CONTINUUM とい
う海外盤のCDです。
CDには、Kranser のこの曲の初演と録音の経緯を綴ったドキュメントが掲載され
ており、これがなかなかおもしろいので、ご紹介します。(かなり、長文になっち
ゃったので、興味の無い方はスキップしてください。)

Kranser は1903年ウクライナ生まれ。5歳の時に米国に移住しています(革命
間近のロシアから脱出したということですかね)。現代物を得意としていたようで
、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲も初演しています。

ウェーベルンと Kranserの出会いは1930年代前半の新ウィーン楽派のサロンで
の交流から始まります。サロンコンサート終了後の研究会で、ウェーベルンがベー
トーベンのピアノソナタのアナリーゼを行い、ベートーベンの魂がウェーベルンに
乗り移ったようなフレーズ毎のきめ細かい解釈は Kranserに強烈な印象を与えまし
た。

ベルクのヴァイオリン協奏曲は Kranserがベルクに2年間の独占演奏権付きで委嘱
した作品で、1935年に完成されました。初演は、翌年4月、バルセロナで開催
されるISCM(国際現代音楽協会)の音楽祭で行われることとなりました。

ISCMは、この初演を、ウェーベルン(指揮)と Kranserに依頼。ウェーベルン
からも、Kranser に、ベルクの草稿をいっしょにチェックしたいので、バルセロナ
に行く前にウィーンに寄って欲しい旨、依頼がありました。

ところが、Kranser がウィーンに着いてみると、ウェーベルンはISCMに指揮の
辞退を申し入れおり、ISCMは代役をどうしようかと検討している始末。ウェー
ベルンは極度に神経質になっているので、面会も避けて欲しいと言われます。
Kranser はウェーベルンと話ができないのなら、自分もソロを弾くのはやめると
ISCMに抗議し、ようやくウェーベルンに会うことができました。

ウェーベルンは Kranserと会い、彼のヴァイオリンのソロを聴いたり、曲の解釈を
話し合ったりしている内に、翻意。いっしょにバルセロナに向かうことに同意しま
す。二人、まる二日の汽車旅行、車中で膝をつきあわせて、曲のアナリーゼに没頭
しました。

バルセロナのリハーサルはスペイン内戦の最初の砲撃戦の次の日から開始されまし
た。オケはパウ・カザロス管弦楽団。
悲劇は、ウェーベルンがウィーンでのベートーベンのピアノソナタ解釈と同じやり
方でリハーサルを進めようとしたのに、楽員にはウェーベルンのウィーンなまりの
ドイツ語がさっぱり理解できなかったこと。
ウェーベルンは一音一音の意味をなんとか分からせようと、何度も何度も同じフレ
ーズを繰り返し、練習させるのですが、ウェーベルンのドイツ語が聞き取れない演
奏家達は困惑するばかり。

最初の2回のリハーサルで76ぺージのスコアのうち、練習が終わったのは始めか
ら3、4ページだけ。Kranser はウェーベルンにプレーヤに全曲の見通しを与える
ためには、一度、通して演奏したらどうかとアドバイス。ウェーベルンも残り2回
のリハーサルでやってみようと同意するのですが、うまくいかない。
ウェーベルンは、なによりも作曲家であり、彼のイメージ通りの音がならない限り
、先に進むことのできなかったのですね。
最後のリハーサル。30分ほどやって、事態はますます悪化。とうとう、ウェーベ
ルンはスコアをひったくり、ステージを去り、ホテルの自室に閉じこもり、そのま
ま消えてしまいました。

ウェーベルンからヘルマン・シェルヘンを代役として翌日の初演を行って欲しいと
のメッセージが伝えられ、なんとか悲劇は回避されます。シェルヘンはベルクのス
コアをまだ見たことがなく、練習もその日の深夜一回(もともとシェルヘンの指揮
する別の現代作品コンサートのための時間だったのですが)だけという状態でした
が、ウェーベルンからの依頼を引き受けました。

次の日、リハサールの危機的進行にハラハラしながも、新曲に期待する各国から集
まった多数の聴衆を前にベルクのヴァイオリン協奏曲は初演されます。まったく淀
むところるない、素晴らしい集中力のこもった演奏で、初演は大成功でした。
ウェーベルンの悲劇的なキャンセルのショックは、逆にプレーヤの心にベルクの音
楽のエッセンスを強く印象付けることになりました。結果的に、オーケストラは自
発的に全体の響きを聴き、かってない高みに心を振るわせることができ、感動的な
演奏となりました。急遽、代役を引き受けたシェルヘンも、この新曲に感極まりな
がら、雄弁に指揮しました。
曲の終わり、優しいけど、背筋の寒くなるような音が消えたとき、会場は深い感動
につつまれ、物音一つしませんでした。長い沈黙の後、指揮者のシェルヘンがスコ
アを高く掲げると、聴衆は立ち上がり、大きな拍手と喝采が続いたそうです。

こうして、4月19日のバルセロナでの初演は、ウェーベルンの不在にも関わらず
、彼の思いを伝える演奏となったのですが、その約2週間後、5月1日のロンドン
での演奏会では、ウェーベルンは指揮台に立ち、演奏することができました(CD
の演奏会です)。

リハーサルの最初の数分間、誰もがバルセロナの事件を思い出し、ためらいがあり
ました。ウェーベルンのリハーサルの進め方はバルセロナとまったく同じものでし
た。しかし、バルセロナの初演で確立したこの曲が20世紀最大の傑作の一つとい
う認識がロンドンの音楽家達の振る舞いをまったく異なるものとしたのです。
彼らはウェーベルンのしゃべる一言も聞き漏らさす、すべてのジェスチャの意味を
理解し、素晴らしい作品を具現化する作曲家の啓示のメッセージとして反応しまし
た。

Kranser にとって、ロンドンの演奏会でのウェーベルンの指揮振りは、ウィーンで
ベートーベンのピアノソナタのアナリーゼを行った時の姿を彷彿とさせるものだっ
たそうです。ウェーベルンはベルクと一体化し、精神だけの存在となったのです。
ベルクのマノンへの別れのメッセージは、同時にベルクへの追悼の音楽として表現
されました。

ロンドンでは、ベルクのヴァイオリン協奏曲の一音一音は、その完全な姿で、考え
抜かれ、落ち着いて、祈りをもって、演奏されました。それは、あたかも、ウェー
ベルンが、かってウィーンで少数の熱心な同志達を前に行った感動的なアナリーゼ
の再現のようでした。こうして、ステージの楽員とBBCの聴衆にとって、ウェー
ベルンによるこの曲の初演は、敬虔な内的洞察の厳粛な体験であり、めったに経験
できない魂の祈りの時となったのでした。

以上、原文を1/3位に圧縮して、紹介しました。

演奏は初演直後の熱気にあふれるもので、なかなか興味深かったですね。SP時代
なので、録音の状態は悪いのですが。興味のある方には一聴をおすすめします。

                                                        窪田 洋(TBE00266)

P.S.  よる年波、こまかい文字の英文の解説書を丁寧に読むのは辛かったですね。
調べたら、このCD、国内盤がフリップスから発売されているのですね。なんだ、
最初から国内盤買えばよかったなぁ。